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「え? ……まさ、か」
たった今擦れ違った人物の顔に、茶褐色の髪と焦げ茶の瞳を持つ青年は思わず掠れた声を漏らしていた。
薄い金の髪はくしゃくしゃと揺れ、白い肌と平均より少し低い身長が鍛えられた身体を華奢に見せている。短い髪の奥に隠れた双眸は青く煌いていた。そんな人物と青年は擦れ違ったのだ。
探して、探して、探し続けた人物と、たった今ここで擦れ違ったという奇跡に青年は心底神に感謝した。例えその青年が日常的に神に祈っていなかったとしても、今この瞬間だけは神の存在を信じた。
唾をごくりと飲んで、青年は慌てて振り返る。そうだ、追いかけなくては。今ここで擦れ違った奇跡に感動している場合ではない。
ずっと、探していた。
青年は、壁のように立ちはだかる人混みを必死で掻き分けて走る。
先程擦れ違った人物を必死で探す。
もう会えないかと思っていた。
目の端に、人物の後姿を捉えた。
慌てて身体の向きを変える。ほぼ強引に捻った身体のどこかが、痛いと悲鳴を上げたのには、聞こえない振りをした。そんなことには到底構ってはいられないのだ。
ああ、なんて懐かしい後姿だろか。そう思っただけでも涙が出てくる。
会えないなどという軽いものではなく、死んでいるのではないかとさえ思っていた。
もう何年もこの瞬間を待っていた。探し続けたかいがあった。諦めなくてよかった。
そんな数々の思いと、これまでの道程がぼんやりと浮かび上がっては消え、浮かび上がっては消えてゆき、青年の表情は嬉しさと、思い出した苦しみと、それから今唐突に込み上がってきた達成感に震えていた。
あと少し。あと3歩。
ごちゃごちゃとした人の群が、うざったく立ちはだかりなかなか前に進めない。
あと2歩。
手を伸ばせば届く距離だ。それでもあと一歩近づきたいと、青年は強く思った。
これであと1歩。
ようやく辿り着いた。探し続けた人。この世で最も愛する人。
とうとうゼロ距離。
喉が渇いて声が出ない。何と声を掛けようか。
心臓がやかましく鳴り続けている。
早く声を掛けろ。もしくは、手を伸ばして、掴め。青年の頭の中でもう一人の自分が、やけに冷静な声で叱咤していた。
そうだ、もうこの手を離さない。
会うことができたら、もう決して手を離さないと決めていたのだと思い出す。
そして青年は、震える腕を伸ばし、目の前の人物へと手を伸ばす。
「ディア……!」
もう何度口の中で呟いただろう名前が、喉を震わせて発声された。
ディア、と青年が呼んだ人物は、驚いたように振り返った。その際に、ディアの肩を掴んでいた青年の手は、振り返る勢いによって跳ね除けられた。
それでも青年は構わなかった。いや、ディアと呼んだ青年の顔に集中していて気がつかなかったという方が正しい。
「……ディア、ディア。生きていたんだな……」
振り返ったディアと呼ばれた人物は、確かに青年が何年も探し続けていた人物だった。
ようやく探し出せた喜びで、青年の胸は一杯だった。こみ上げてくる涙の気配に、どうしようもなく切なくなる。
青年がもう一度『ディア』と呼びかけようとした時だった。ディアと呼ばれた人物は、不思議そうな表情をしてかくんっと首を傾げながら眉を顰めた。
「あの、……どちら様ですか…?」
「……ディ、ア……?」
こんなにも似ているというのに、人違いだというのだろうか。
また振り出しか、と青年が絶望の沼に足を浸そうとした時、ディアと青年が呼んだ人物は申し訳なさそうに困り果てながら続きの言葉を紡いだ。
「すみません……。僕、3年前までの記憶がなくて……。確かに僕は『ディア』っていう名前ですけど、あなたと会ったことがあるかはわからないんです……」
「……記憶が、ない、のか……?」
「はい、ないんです」
「嘘、だろ……? ディア、俺を覚えていないのか? 俺は、ヴァルターだ」
「……すみません……」
ディアは本当に申し訳なさそうに俯いて、必死で縋る青年――ヴァルターに何度も繰り返し謝った。
その仕草の一つ一つが、ヴァルターの最愛の人ディアだと言っているというのに、ディアはそれすらも解らないのだという。
ディアが記憶を失っているのではないかということは、何回か考えたことがあったが、想像するのと実際に起こってみるのとでは、その衝撃の強さは半端ではなかった。
ヴァルターが絶望に打ちのめされていると、そこに近寄ってくる気配があった。
この気配は、知っている。
そう直感して顔を上げると、そこには脳裏に浮かんだ通りの人物がいた。
「ディア、何をしている」
「ユノス、ごめん。ちょっとこの人が……」
ヴァルターは、ユノスと呼ばれた男と親しそうに話すディアの姿に、驚きを隠せなかった。こんなことが起こる筈がない、ありえないとヴァルターは今目の前で起こっている光景を頭の中で否定する。
ありえない。こんなのはありえないのだ。
ディアにユノスと呼ばれた男は背が高く、黒く長い髪を腰ほどにまで伸ばし、しなやかな身体にはしっかりと鍛えられた筋肉が適度についていた。そして紫の瞳には、背筋がぞくりとする何かが宿っているようだった。
確かに目の前にいてディアと親しそうに話しているこの人物は、知った顔だった。
それ故に、ありえない、とヴァルターはもう一度心の中で呟いた。
何故ならこのユノスという男は、ヴァルターやディア、ひいては人類の敵であるのだから。
「……ああ、これはこれは……。懐かしい顔だ」
「ユノス……! これはどういうことだ!」
「そう怒るな。ディアが怯えている」
そう言うとユノスは大事なものを守るかのように、ディアを自分の後ろへと隠してしまった。ディアはというと、ユノスに頼るようにぎゅっと腕にしがみつき寄り添っている。
ヴァルターは三度、頭を振り現実を否定した。
なんなんだ、これは。夢でも見ているのか。
「何故、何故、お前がコイツと一緒に居るんだ……」
喉を振るわせて吐き出された声は、搾り出したように掠れていてかろうじて音になっている程度の声だった。
ヴァルターの目には、先程まで浮かんでいた喚起の色ではなく、どうしようもない絶望と現実に対する理解不能の困惑とで揺らいだ光が灯っていた。
それに気付いたユノスは、くつくつと喉を震わせて笑う。そして、にやりと口の端を持ち上げて笑うと、美しく響く低音で滑らかに言葉を紡いだ。ヴァルターにのみ聞こえる声で低く囁く。
「残念だったな。ディアは私のものだ。ディアもそれを望んでいる」
「ユノス! 貴様まさかディアの記憶を喰ったのか!?」
「人聞きの悪いことを言うな。それは違う」
「だったら、何故!」
「言っただろう。ディアが望んだことだ。だからもう、私達に構うな。……といっても無理だろうがな。まぁいい、それでも現実は変わりはしない」
「なんだと……!?」
「だから、大きな声を出すな。ディアが怖がっているだろう。……ディア、ディア。もう行こう。ただの人違いだ」
「……うん、行こうユノス。……あ、あの。多分人違いだと思うんです、本当にごめんなさい。僕があなたの探している人ではなくて」
そう言ってディアはユノスに肩を抱かれながら人混みの中に紛れて消えてしまった。
絶望に打ちのめされたヴァルターは、それをただ眺めて見送ることしかできなかった。
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